アガサ・クリスティの「カーテン」より「悪」と「愛」

子どものころから推理小説や探偵小説が大好きで図書室の「怪人二十面相」とか「シャーロックホームズ」とか「アルセーヌ・ルパン」のシリーズを読みふけっていたものです。

「奇巌城」など最後のほうの対決シーンが印象的で、何度も何度も借りて何度も同じシーンでドキドキしていました。

中・高生のころはアガサ・クリスティにハマり、「全巻集める!」とお小遣いがたまると文庫本を買っていました。

アガサ・クリスティという名前と作品を知ったのは実家の本棚が最初でした。

実家にはなぜかアガサ・クリスティのハードカバーが本棚に2冊あり、誰も読んでいないのでずーっと同じ場所にありました。

タイトルがカタカナと簡単な漢字が使われていたので小学生低学年でも読め、幼いながらに「どんなことが書いてあるなのかなぁ」と本棚の上のほうの赤と白の背表紙を眺めていたものです。

その赤の表紙のタイトルが「カーテン」。

赤い背表紙に黒い太いフォントで カーテン と書いてある不気味さ。

なんなんだろう?

幼いころに椅子に乗って中を見たことがありますが、難しい漢字ばかりで絵もなく、つまらないと思いつつ、謎が解明しないまま気になる本になりました。

people at theater

さて、アガサ・クリスティの推理小説の主人公である探偵は何人かいて、その中の有名な一人がいつも綺麗に整えられた髭をたくわえたベルギー人、エルキュール・ポアロですね。

ポアロは殺人事件の現場を証拠集めをするためにうろうろするタイプではありません。

優秀な自身の”灰色の脳細胞”を武器に、事件にまつわる人の気持ちや動きといった心理的な情報を得て、椅子に座ったまま見事に犯人を特定していくことに美学を感じる探偵です。

推理小説ですからストーリーの中に「殺人事件」が起き、もちろん殺人犯が登場するのです。

ポアロは、殺人者が「なぜ」殺人を犯したのか、ということに焦点を当てその心の闇を暴いていきます。

私の記憶の中に、殺人者についてポアロが語ったはずの言葉で、ずーっと忘れられずに残っているものがあります。

それはおおよそこのような内容です。

「人を殺したい」と憎む気持ちは誰にでも起こるが、ではそう思った人が実際に憎む相手を殺してしまうか、というとそんなことにはならない。

人を「殺す」ということと「殺したいと思う気持ち」には雲泥の差があり、人として簡単には越えられない大きな一線がある。


でもそも一線を越えてしまった場合、その殺人者は必ず再び殺人を犯す。

だからつかまえなければならないのだ。

そしてポアロはそういった一線を簡単に越える者を「」と言っていたように思います。

・・・今、書いていて、あれ?これはポアロじゃなくてミス・マープルが言ってたっけ?と思いましたが、ミス・マープルはこんなこと、あまり言わないでしょうね、きっとポアロだと思います・・・。

ミス・マープルとは別のシリーズの探偵の名前です。

さておき、ポアロの言葉。

人への愛情が非常に大きいことと、人への愛に根ざした正義感を感じるのです。

back view of a woman wearing an angel costume



誰かを憎んだり恨んだり、ということは「誰にでも起こりうる気持ち」なのですよね。

憎む 恨む、というのは誤解を恐れずに言えば、思ってもいい、思っても仕方がない 感情なのです。

つまり、それは「悪」ではないとポアロは言っているんですね。

そういう感情を持つことはあたりまえのことと許しているのです。



そして真の悪は別にある、というわけです。

ポアロは真の悪は絶対に許しません。

あかんもんは、あかん。

もとい

ならぬものは、ならぬ。

というわけですね。

ところで実は「許さない」というのも一つの愛の形なんですね。

ポアロの人に対する愛だと私は思います。

decorative heart of elastic coil on pink background


さて残念ながら私たちの身近にも「悪」や「悪意」というのは時々表れます。

なぜか古今東西消えてなくならないもののようです。

意地悪してみたり、陰口を言ってみたり、無視したり・・・誰かの心を傷つける「悪意」そのものです。


誰かの「悪」や「悪意」に出会ってしまった人が、その悪への恨みや憎しみについての悩みを誰かに聞いてもらったとします。

すると、その話しを聞いた人が「同じレベルになってしまうよ」「気にしないほうがいいよ」となぐさめる・・・
よくあることではありませんか?

気分の良くない感情を長続きさせることはよくないこと、と心配してくれる気持ちはわかります。

「気にしない」で済ませることができるくらいならいいのですが、どうしても良くない感情を拭い去ることは難しい。

そんなとき、ポアロが許すように、恨んだり憎んだりする気持ちはとても自然なまともな感情だ、ということを思い出して、そんな風に思う自分を許してあげましょう。

誰にだってそんな風に思うことはあるんです。

ocean under crepuscular clouds



その上で。

「悪」「悪意」と出会ってしまった場合、どう向き合うか。

そして「悪」「悪意」のせいで自らに芽生えた「憎む」「恨む」という悪い感情をどのように捉えるか。

そして、どう生きるか。



答えは一つではありません。

答えはその人それぞれの中にあるはずなのです。

selective focus photo of a red tulip flower


「カーテン」の中で、ポアロは究極の「悪」と戦いました。

「カーテン」は、アガサ・クリスティの作品の中で私が一番最初に読んだ推理小説だったのでしたが、その一番最初に読んだ本が、なんとエルキュール・ポアロ シリーズの最終回!?という衝撃!

しかしそうだったからこそ、アガサ・クリスティにハマったのかもしれません。



子どものころは小説に夢中になっていましたが、大人になるとアガサ・クリスティという作家がどういった人生を歩んだのか、人となりを知りたいという思いが芽生えました。

アガサ・クリスティが女性だったということに驚き、そして波乱の人生・・・結婚、離婚、再婚も含め・・・を歩んだということを知り、また興味が深まりました。

アガサ・クリスティの「カーテン」。

最期の本(!?)ですがお勧めです♪



カウンセリングのご予約はこちらから

Follow me!

アガサ・クリスティの「カーテン」より「悪」と「愛」

子どものころから推理小説や探偵小説が大好きで図書室の「怪人二十面相」とか「シャーロックホームズ」とか「アルセーヌ・ルパン」のシリーズを読みふけっていたものです。

「奇巌城」など最後のほうの対決シーンが印象的で、何度も何度も借りて何度も同じシーンでドキドキしていました。

中・高生のころはアガサ・クリスティにハマり、「全巻集める!」とお小遣いがたまると文庫本を買っていました。

アガサ・クリスティという名前と作品を知ったのは実家の本棚が最初でした。

実家にはなぜかアガサ・クリスティのハードカバーが本棚に2冊あり、誰も読んでいないのでずーっと同じ場所にありました。

タイトルがカタカナと簡単な漢字が使われていたので小学生低学年でも読め、幼いながらに「どんなことが書いてあるなのかなぁ」と本棚の上のほうの赤と白の背表紙を眺めていたものです。

その赤の表紙のタイトルが「カーテン」。

赤い背表紙に黒い太いフォントで カーテン と書いてある不気味さ。

なんなんだろう?

幼いころに椅子に乗って中を見たことがありますが、難しい漢字ばかりで絵もなく、つまらないと思いつつ、謎が解明しないまま気になる本になりました。

people at theater

さて、アガサ・クリスティの推理小説の主人公である探偵は何人かいて、その中の有名な一人がいつも綺麗に整えられた髭をたくわえたベルギー人、エルキュール・ポアロですね。

ポアロは殺人事件の現場を証拠集めをするためにうろうろするタイプではありません。

優秀な自身の”灰色の脳細胞”を武器に、事件にまつわる人の気持ちや動きといった心理的な情報を得て、椅子に座ったまま見事に犯人を特定していくことに美学を感じる探偵です。

推理小説ですからストーリーの中に「殺人事件」が起き、もちろん殺人犯が登場するのです。

ポアロは、殺人者が「なぜ」殺人を犯したのか、ということに焦点を当てその心の闇を暴いていきます。

私の記憶の中に、殺人者についてポアロが語ったはずの言葉で、ずーっと忘れられずに残っているものがあります。

それはおおよそこのような内容です。

「人を殺したい」と憎む気持ちは誰にでも起こるが、ではそう思った人が実際に憎む相手を殺してしまうか、というとそんなことにはならない。

人を「殺す」ということと「殺したいと思う気持ち」には雲泥の差があり、人として簡単には越えられない大きな一線がある。


でもそも一線を越えてしまった場合、その殺人者は必ず再び殺人を犯す。

だからつかまえなければならないのだ。

そしてポアロはそういった一線を簡単に越える者を「」と言っていたように思います。

・・・今、書いていて、あれ?これはポアロじゃなくてミス・マープルが言ってたっけ?と思いましたが、ミス・マープルはこんなこと、あまり言わないでしょうね、きっとポアロだと思います・・・。

ミス・マープルとは別のシリーズの探偵の名前です。

さておき、ポアロの言葉。

人への愛情が非常に大きいことと、人への愛に根ざした正義感を感じるのです。

back view of a woman wearing an angel costume



誰かを憎んだり恨んだり、ということは「誰にでも起こりうる気持ち」なのですよね。

憎む 恨む、というのは誤解を恐れずに言えば、思ってもいい、思っても仕方がない 感情なのです。

つまり、それは「悪」ではないとポアロは言っているんですね。

そういう感情を持つことはあたりまえのことと許しているのです。



そして真の悪は別にある、というわけです。

ポアロは真の悪は絶対に許しません。

あかんもんは、あかん。

もとい

ならぬものは、ならぬ。

というわけですね。

ところで実は「許さない」というのも一つの愛の形なんですね。

ポアロの人に対する愛だと私は思います。

decorative heart of elastic coil on pink background


さて残念ながら私たちの身近にも「悪」や「悪意」というのは時々表れます。

なぜか古今東西消えてなくならないもののようです。

意地悪してみたり、陰口を言ってみたり、無視したり・・・誰かの心を傷つける「悪意」そのものです。


誰かの「悪」や「悪意」に出会ってしまった人が、その悪への恨みや憎しみについての悩みを誰かに聞いてもらったとします。

すると、その話しを聞いた人が「同じレベルになってしまうよ」「気にしないほうがいいよ」となぐさめる・・・
よくあることではありませんか?

気分の良くない感情を長続きさせることはよくないこと、と心配してくれる気持ちはわかります。

「気にしない」で済ませることができるくらいならいいのですが、どうしても良くない感情を拭い去ることは難しい。

そんなとき、ポアロが許すように、恨んだり憎んだりする気持ちはとても自然なまともな感情だ、ということを思い出して、そんな風に思う自分を許してあげましょう。

誰にだってそんな風に思うことはあるんです。

ocean under crepuscular clouds



その上で。

「悪」「悪意」と出会ってしまった場合、どう向き合うか。

そして「悪」「悪意」のせいで自らに芽生えた「憎む」「恨む」という悪い感情をどのように捉えるか。

そして、どう生きるか。



答えは一つではありません。

答えはその人それぞれの中にあるはずなのです。

selective focus photo of a red tulip flower


「カーテン」の中で、ポアロは究極の「悪」と戦いました。

「カーテン」は、アガサ・クリスティの作品の中で私が一番最初に読んだ推理小説だったのでしたが、その一番最初に読んだ本が、なんとエルキュール・ポアロ シリーズの最終回!?という衝撃!

しかしそうだったからこそ、アガサ・クリスティにハマったのかもしれません。



子どものころは小説に夢中になっていましたが、大人になるとアガサ・クリスティという作家がどういった人生を歩んだのか、人となりを知りたいという思いが芽生えました。

アガサ・クリスティが女性だったということに驚き、そして波乱の人生・・・結婚、離婚、再婚も含め・・・を歩んだということを知り、また興味が深まりました。

アガサ・クリスティの「カーテン」。

最期の本(!?)ですがお勧めです♪



カウンセリングのご予約はこちらから

Follow me!