がんばりすぎる前に 自分の「ゆらぎ」を増幅して「自然」の力を取り戻す!? という話

Osaka Metroのホームで聞こえる電車到着のアナウンスが、少し前から人工的な感じになりました。

聞くたびに少し違和感があって気になっています。

声は人の声を使っているのでしょうか?

つぎはぎの録音をつなぎあわせたような読み方で自然な呼吸が感じられないのと、イントネーションがなんだか違うように思います。

それが聞いていてとても冷たく感じられるのです。

アナウンスとしては聞きとりやすいので、伝えるという「仕事」としてはちゃんとしているなぁとは思うのですが。

聞いた後はすぐその違和感を忘れるくらい小さなことなのですが、聞くたびにまた同じような、すこし息苦しいような違和感を感じてしまいます。

きっとアナウンスされる方は大変なのだと思います。

が、録音でもいいのでちゃんと人の声で、ちゃんと文章を読んだ声のアナウンスだったら、このコロナ禍、人との触れ合いがますます減ってきている中、少しは暖かい気持ちになれるのになーと思ったりしています。


なぜ、人の声だとほっとするのかなぁ・・・と思っていて、ふと、かれこれ学生時代に図書館で手にとった科学雑誌に書いてあったことを思い起こしました。

うろ覚えですが、時々思い出すことなのです。

それは「ゆらぎ」に関すること。

長い記憶の中で勝手に書き換えてしまっている可能性はありますが、長い人生の中で、そう間違ってはいないんじゃないかなぁとも思ったりしています。

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その文献?によると「アフリカマイマイ」の動きを調べるとある特定の数値を持つ「ゆらぎ」を計測することができたのだそうです。

アフリカマイマイ?と、そこだけはものすごく覚えているのですが、あらためてアフリカマイマイを調べると、なんだか凄いんですね。

世界最大級のカタツムリで、殻の高さだけでも20センチメートル近くあるそうです。

夜行性だそうで、夜にのっそり歩いているのに出くわしたりすると道を変えようかなと思うに違いないです。

しかも、寄生虫を持っているらしく触った手が食品に触れてそれを食べてしまうと脳障害を引き起こす危険があるとか。

国立環境研究所 侵入生物データベース「アフリカマイマイ」

なんでまたこんな危険度の高そうなカタツムリの動きを調べたのでしょうか。大きかったから調査しやすかったんでしょうか?

話はもどりますが、アフリカマイマイの動きにある「ゆらぎ」が、小川のせせらぎだったり、木々を渡る風の音だったりの中にも同じものがある、はたまた石だか岩だかの中に・・・石とか岩の中に動くものがあるのかどうかはわかりませんが・・・も同じゆらぎが計測された・・・というのです。

つまり、いわゆる自然といわれるものの中には「ゆらぎ」がある、ということらしいのです。

amazing waterfall with lush foliage on rocks

私たちの身の回りにある人工物と自然物にはは明らかに違いがあります。

・・・何をもってして人工物と言うのか、最近はなかなか難しくなってきましたが。

人工物と自然物のどちらがいい、ということではないのですが、人工物に囲まれて生活をしている私たちは、自然物に「癒される」「ほっとする」「暖かさを感じる」「ぬくもりを感じる」ことが多いのは事実。

この理由のひとつは自然物には、それとはっきり気がつかないけれども「ゆらぎ」を感じるから、ではないかと思うのです。

私たち人間も「自然物」。

生き物です。

自然物には同じゆらぎがある、というのであれば、人間の中にも同じゆらぎがあるはず。

私たちが自然物に癒されるのはその「ゆらぎ」とシンクロできる部分があり、心地よいからではないでしょうか。

ちょっとまた話しが変わって、シンクロで思い起こすのが「倍音(ばいおん)」。

ご存知ですか?

吹奏楽などの経験がある方にはなじみの言葉だと思います。

「倍音」とは「音」のことです。

音は振動つまり波。

規則正しく波打っているある音が、波のタイミングによって実際に鳴らしている音とは別の音を響かせる・・・というものが「倍音」です。

簡単に言いますと、何人かの人が同じ「ラ」の音を同じ周波数できっちり鳴らすと別の音が・・この時の鳴らしている音によってどんな音が鳴るかは決まっています・・・いくつか聞こえるのです。

最初にこの倍音を教えてもらったときは不思議な感覚でした。

鳴らしていないはずの音が、実際に鳴らしている音と同時に聞こえるのですから。


倍音と同じように、何かがうまくシンクロすると別の何かが鳴り出す、動き出す、ということはあるんだろうなと思うわけです。

pure splashing sea wave in daylight

さて、人は病気になると心臓の拍動の「ゆらぎ」が少なくなってくるそうです。

病気になればなるほどゆらぎがなくなる。

ゆらぎがなくなる、ということはつまり「規則正しくなる」ということです。

規則正しくなる、というのは良い言葉で使われることが多いですよね。

規則正しい生活、とか・・・。

ただ、ここで使うのはちょっと意味が違います。

極端な例ですが、体調が悪くなってしまい、たとえば人工呼吸器をつけることになったすれば、人工呼吸器は「規則正しく」動きますし、心臓の拍動も規則正しく動くようになりますよね。

そう考えると、確かに病気になると「ゆらぎ」が少なくなる、というのもなんとなく理解できる気がします。


「心」はどうでしょうか。



心が弱ってきたとき。

やっぱり「ゆらぎ」が少なくなるような気がします。

考えや思いにゆらぐ幅がなくなる。

同じことばかりにこだわったり、ひとつの思いに捉われてしまってそこから抜け出せない・・・

これは「ゆらぎ」からはかけ離れている状態ですね。


心に「ゆらぎ」があるということは、思考にふり幅がある、と言えると思います。

冗談を言えたり、新しい発想が生まれたり・・・という状態はつまり十分「ゆらぎ」があるということでしょう。

scenic view of lake in forest



「わたし、いま、ゆらぎが少なくなってる!?」

とは普通あまり思わないでしょうが、それでも、癒しを求めて自然の中に身を置きたいと感じることはありますよね。

それは「ゆらぎ」の中に身を置き、そのゆらぎの力を使って自らの中に同じゆらぎを復活させ、健康でありたいという心の働きなのではないでしょうか。


ゆらぎのない人工物に囲まれる生活。

疲れてしまうのは当たり前のことかもしれませんね。

tealight candle on human palms



私たち人間も「自然」と考えると、自分自身の中には小さくなったとしてもきっと「ゆらぎ」はあるはずです。

がんばりすぎて「ゆらぎ」が消えてしまう前に「自然」の中の「ゆらぎ」に触れ、自分の「ゆらぎ」を増幅して「自然」の力を取り戻す・・・。

ちょっと面白いと思いませんか?


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