ソーシャルスキル
発達障害の子どもたちとソーシャルスキルを高めようとしている中で、子どもたちの発言に、改めて考えさせられるなぁと思うときがあります。
先日は、低学年の小学生が「年上の人にはなぜ丁寧な言葉遣いをしなければならないのか」ということに疑問を感じていた場面に遭遇しました。
小学校低学年といえば、学校という社会に入り、人の世の中について次第に見えてきて、その中で自分というものを出して失敗したり成功したりしながら、社会の一員としての基礎を作っていくころ。
日常生活の中では、あるときは友達や年上の兄弟姉妹に乱暴に言いつけられてなぜか悲しい気分になったり、あるときは年上の人には丁寧にご挨拶しなきゃ!と教えられたり。子供たちはそのときどきに「なんでやねん!?」ととまどいながらも日々を生きているのですね。
「年上の人にはなにゆえ丁寧にご挨拶をしなければならないのか、丁寧に話かけねばならないのか」ということについてあらためて大人と話しや議論(?)する機会はあまりないかもしれません。
きれいな、まっすぐな心をうつした瞳をして、しごく真面目な表情で「わからない。なんでだろう?」と問われると、どのような言葉で説明すればよいのか考えさせられます。
「そういうものなのよ」
「世の中には、そういうものだ、と飲み込んでしまわないといけないこともあるのよ」
と言いくるめてしまう方法もあります。
「ならぬものはならぬのだ」と言わなければならない事柄も世の中にはありますものね。
なかなか「これ」という、彼らが納得できるような答えを示してあげることは難しいのですが、「もし、あなたが、だれか年下の人から乱暴な言葉で話しかけられたら、どう思う?」と逆に問いかけてみると・・・
「いやな気持ちがする!」
具体的であればあるほど、低学年の子供はすぐにわが身に置き換えて考えて、素直にその気持ちを表現し、こちらが言葉を並べるよりもずっとスムーズに理解してくれるようです。
とはいえ、その理解が本当の彼らの中に定着しているかというと、それはまたちょっと違いまして、まだまだ大人に向かって遠慮ないぞんざいな言葉遣いをしてしまうものなのですね。
それが子どもというものなのでしょう。
一歩ずつ、少しずつ、タイミングをみつけて繰り返し話をしていくことになるのでしょうね。
そして、そういう風にして私たちもいろいろなことを教えられて育ってきたのですね。
彼らにとっての疑問を感じた時間は、彼らにとってはそんなことに疑問を持ったことすらいつの間にか消えてしまう、一瞬にすぎないんだろうなと思いつつ、だからこそこの一瞬を大切にしたいと思う今日この頃です。