多様性が自然に身につく~音楽~
音楽に携わっていた者として、音楽をする人や音楽を指導する立場にある人は「多様性」についての理解が、他の人に比べてハードルが低いのではないか、という話です。
先日、発達障害の関する研修を受けました。
竹田契一先生による2時間があっという間の、大変刺激を受けた研修となりました。
発達障害は、人によって困り感が異なることが知られています。
学校では、複数の児童、生徒を一律に「授業」という枠で指導する必要から、どうしても「一人ずつ異なる困り感」に対応することが難しいのが現状です。
特に日本では、空気を読み、足並みをそろえることを良しとされ、一人ひとりの困り感にあわせた指導は指導側の理解に頼ることが多くなります。
さて研修の中に、一人ひとりの困り感を「多様性」と捉える、という話しがでてきました。
そこでふと思ったのです。
いわゆる5教科の指導を担当する教師と比べると、「音楽」の指導者は「多様性」が大前提にあってこその指導になるため、もしかすると少し違った次元で「多様性」という言葉を理解しているのではないか、ということです。
学校で音楽の授業をするとき、「合唱」指導は欠かせません。
合唱にはもちろん人の声を使うのですが、その人の声の質や音域、年齢・・声変わり・・などによって、歌いやすい曲を考えるだけでなく、それぞれに無理なくチャレンジできるパートを考えることは自然なことです。
声の高さだけではなく、肺活量も違いますし、声の大きさも人それぞれ。
この違った個性的なものを一つの音楽にするということに、合唱の醍醐味があり、学校で指導する意味があるわけなのです。
一人ずつを見るとそれぞれに状況が違うわけですが、違いがあることが前提で始まる音楽。
多様性は、空気のように自然なことなのです。
合唱だけでなく吹奏楽の指導なども同じことが言えそうです。
音の鳴らし方が楽器によって異なること。
どの楽器を専門にしようかと選択する場合、唇の厚みや歯並び、体力なども考慮すること。
結果的に同じ音を出すけれど、楽器によって違う楽譜を使うこと。
個別に違いがあっても、その違いを生かして作りたいものは一つの音楽です。
多様性を理解することと、困り感にひとつづつ対応することとはまた違うことなのですが、それでもまずは目の前の人を「受け止めよう」とする想いは同じはずです。
発達障害の方への教育現場での対応に、音楽科の教師だからこそできる活躍がもっとあるに違いないと思った今日この頃です。